微かに声が聞こえた。
滅多にないことに訝しがりながらもシエルは耳をすました。
この悪魔の屋敷にはシエルと執事しか棲んでいない。
普通なら声など聞こえるはずはないのだが、やはり確かに聞こえてくる。
それは人間が悪魔を呼ぶ声。
自らの望みを叶えるために悪魔を召還する声だ。
シエルが悪魔になって100年以上経つ。
執事である、いにしえの悪魔に指南を受けて魔力の使い方もかなり上達した。
元々強い魔力を移されて悪魔化したのだ。潜在能力は高すぎるほど高い。
たった100年やそこらで、そこらの低級悪魔など足下にも及ばないほど力をつけている。
悪魔には人間の召還する声が聞こえる。
それを無視するも、召還に応じるも、契約を交わすも、悪魔次第だ。
実際シエルも過去に一度だけ人間と契約したことがある。
たいした内容ではなかったから拘束されることはなかったが、短い時間ではあるが契約者と共にあった。
それがセバスチャンには気に食わなかったらしい。
その契約終了後から、ピタリと声が聞こえなくなった。
最初は気がつかなかったが、疑問を抱くのには時間はかからなかった。
魂を得るためにセバスチャンは度々人間と契約を交わすというのに、そのときの呼ぶ声さえ聞こえないのである。
セバスチャンがそれらの声をシャットアウトしていることに気がついたとき、シエルは呆れた。
聞こえなければ、応じることも、契約を交わすこともできない、そう考えたのだろう。
元々自分に執着していることは知っていたが、ここまでとは。
だが何を云っても無駄なことをシエルは学習していたから、心底馬鹿にしたような呆れ果てた顔をして見せただけで済ませてやった。
優しいご主人様である。
だから聞こえないはずの声が聞こえてシエルは少し驚いた。
セバスチャンの新しい遊びか気まぐれかとも思ったが、シエルに聞こえたことに気がついて微かに眉をしかめたところをみるとそうでもないらしい。
セバスチャンの魔力をも乗り越えて届いた声にシエルが興味を持つのは当然のことだ。
発信源を探ったシエルは更に驚き、ますます興味を持った。
発信場所はファントムハイヴ家の地下。
発信者はその末裔、つまりシエルの血に連なるものだったのだ。
小さな子供の呼ぶ声は小さく拙く、悪魔を召還できるレベルではなかった。
きっとセバスチャンにさえ、微かに聞こえる程度だっただろう。
それなのにシエルには届いた。
それがすべてだ。
あくまで召還に応じるのはセバスチャン、シエルは子猫に姿を変えてその様子を見守る。
その条件の元、セバスチャンはシエルと共にファントムハイヴ家に跳んだ。
沢山の蝋燭が灯された地下の、魔法陣が描かれた床に立っていたのは小さな東洋の少女だ。
その外見からして血はかなり薄まっているが、末裔であることは間違いなかった。
容姿から推測するに年齢は十代前半、彼女を取り巻く絶望と憎しみ、そしてここに至る理由と、その望み。
あまりにもあのときのシエルに似ていた。
セバスチャンも微かに興味を惹かれたようだが、契約を結ぶ意志はまったくないようだ。
少女が、名前を問われた少女が、『シエル・ファントムハイヴ』を名乗ったとき、シエルはセバスチャンに命令をくだした。
悪魔の執事へ、主人として。
「その娘の望みを叶えろ」と。
契約しろと命令しなかったためか、セバスチャンは少女と契約を結ばなかった。
表面上は結んだように見せかけて、あくまでシエルの命令を実行するスタンスだ。
良い暇つぶしになると考えたのかもしれないが、それはシエルにとってどうでもいいことだ。
久しぶりの人間界、自分と似た境遇の少女、ファントムハイヴ家の現状。
この偽契約の結末と共に、それらのことはシエルにとって興味深いものだったのだ。
セバスチャンと屋敷に篭っているより楽しそうであるのは確かだ。
そして、その日から少女と悪魔と子猫の新しい生活が始まった。
*
「坊ちゃん、これが貴方の目的だったのですか」
ただの興味本位、退屈凌ぎだと考えるには少女の境遇はシエルに似すぎていた。
黒幕が最高権力者で擁護者でもあった女王であることも同じだ。
「さあな」
英国から遠く離れた東の小さな島国。
ふたりの姉弟が懐かしい我が家を感慨深げに見上げているのを、少し離れた大木の上からシエルは眺めていた。
「僕はただ知りたいだけだ」
洞窟のような暗い瞳の少年はもういない。
男装して悪魔を従えた少女ももういない。
いるのは、家族を死に奪われて生き残ったふたりの子供だけだ。
亡くしたものは還って来ない。死者は甦らない。
だが、ふたりは生きている。
悲惨な過去に決着をつけた今、これからの人生を歩んで行くために。
元々少女はセバスチャンと契約を交わしていなかった。
女王が狂おうが老化する死なない体を与えられようが、悪魔に魂を渡す必要はない。
復讐を終えても人間として死ぬまで生きていくことが出来る。
悪魔と契約を交わした人間の行く末。
目的が果たされたあと契約通り魂を引き渡し喰われ、永遠の静寂を得る。
最もシエルが望んだものだ。
途中までは確かにその終末に向かっていたのに、間抜けな悪魔のせいで果たせなかった。
目的が果たされたあと悪魔と契約を終えることが出来なかった結末が今のシエルだ。
人外のモノとしてすべての者に置いていかれる現状はシエルが望んだものではないが、今更どうすることも出来ないなら受け入れるだけだ。
100年経っても何も変らず、たぶん100年後も200年後も存在し続けていくのだろう。
だが、もし。
目的が果たされたあと悪魔から逃れることが出来たのなら?
人間として残りの人生をどのように過ごし、どのように死んでいくのか、それが知りたい。
シエルに与えられなかった結末。
悪魔化したシエルには想像することも出来ない、その行く末が見てみたいのだ。
「悪趣味ですね」
「そうか?」
ファントムハイヴの当主として、女王の番犬として、悪魔を従え、仇を探し出し復讐を果たす。
同じ血を持ち、似た境遇の少女。
この先の人生に自分を重ねるつもりは更々ないが、興味は存分にある。
どのような結末になっても暇つぶしにはなる。
それに最期にはその魂を手に入れられるのだし。
*
「僕と契約を結ぶか?」
シエルは唇の端をあげ、少女にそう問うた。
「契・・・約?」
呆然としていた少女は契約という言葉に我に返ったのだろう、警戒を露にして問い返す。
「そう、契約だ」
「今更、私が悪魔と何を契約をするというの」
「まず弟を正気に戻してやろう。次にファントムハイヴの現当主を知る人間からおまえの記憶を消してやる。まあ、その女のことは放っておけ。命はあっても生きる屍みたいなものだからな。復讐にはなっているだろう」
「・・・どういうこと?」
「わからないのか?」
十代の少女の身で悪魔と渡り合いファントムハイヴ家当主として海千山千を相手に生き抜いて来た。
知能も意思も判断力も常人以上のものを持っているのだ、わからぬはずはない。
「代償は?」
「お前が死ぬときに戴こう」
少女は目を瞠った。
ファントムハイヴから解き放ち、弟とふたりで自由に生きろと云っているのだ、この少年悪魔は。
130年前に消息を絶った最後の直系当主は死なずに生きていた。
悪魔として、悪魔の執事を従えて。
真意がどうであれ、新しい契約を交わせば、これからも生きていけるのだ、弟とふたりで。
亡くしたものは還って来ない。死者は甦らない。
だが生きていれば、新しく始めることができる。
この先どうなるのかわからない、苦しむかもしれないが、あの恐怖と憎しみの日々に勝る苦痛があるとは思えない。
今日失うはずだった命は猶予を与えられ、死ぬまでは失わずにすむのだ。
「契約する」
力強い少女の言葉を受けて、悪魔シエル・ファントムハイヴは満足気に笑った。
誰もが見惚れる笑顔で。
*
「たまに覗き見するくらいはいいだろう」
シエルの言葉にセバスチャンは眉を顰めた。
「人間界にちょくちょく顔を出すおつもりじゃないでしょうね?」
悪魔の屋敷から出れば、結界から出れば、悪魔を呼ぶ人間の声はシエルにも届く。
それに、何かひとつのことにシエルの関心が注がれるのが嫌なのだろう。
変らぬ悪魔の執着は、もうセバスチャンのアイデンティティーみたいなものだ。
本人に云えば面倒くさいことになるから云わないし、いちいち気にもしていられない。
「じゃあ屋敷から覗けるようにすればいいだろう、おまえが」
外界をうろつかれるのが嫌ならセバスチャンがどうにかすればいいのだ。
数年ぶりに自宅に足を踏み入れる姉弟に背を向けて、蒼い小鳥に変身したシエルは大空へ飛び上がった。
行き先は棲み慣れた悪魔の屋敷だ。
ファサファサと軽い羽音と共に遠ざかる主人に向け、悪魔の執事は苦笑とも微笑ともわからぬ笑いを浮かべて一礼した。
「イエス、マイロード」
また、ふたりの日々がはじまる。
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