「あなたはいつも私の想像以上を見せてくれる」
共にいて何度もそう思った。口に出したことさえある。
いつも彼は私の想像を超えていく。

それは、悪魔になってからも変わらなかった。

 
 

Flying small bird



 
悪魔ふたりが暮らす屋敷の庭には、伯爵邸と同じようにセバスチャンが植えた白薔薇が美しく咲き乱れている。
朝露に濡れた薔薇の花弁を1枚抜き、シエルは口に含んだ。
ゆっくり味わうような表情を浮かべたあと、小さく嚥下する。
「何をされているのです」
黒い執事が背後から呆れたように声をかけた。
「考えていた」
「食べていたの間違いではないですか」
ほんの小さな嫌味をシエルは完全に無視し、ゆっくりと振り返る。
「なぜ、お前は此処にいる?」
「貴方が私を『悪魔の執事』だとおっしゃったからでしょう?」
直立不動のセバスチャンは感情を浮かべぬ貌と目でそう答える。
その目を真正面から覗き込むようにシエルは見つめた。
沈黙がふたりを包み込む。セバスチャンは無表情のままシエルを見つめ返した。

どれだけ時間が経ったのだろうか。数秒だったのか数十分だったのか。
沈黙は始めたときと同じく、シエルが先に破った。

パサパサと軽い羽音が空に舞い上がる。
「何処に行かれるのです」
セバスチャンの問いに小鳥は『散歩だ』と答え、あっという間に空の彼方に消えて行った。
「歩かないのに散歩とはね」
残されたセバスチャンはシエルの前では表さなかった感情を隠すことなく貌に乗せ、小さく笑った。

*

太陽が昇り、真上を通り過ぎて、傾いていった。
空が赤く染まり始めてもシエルは帰って来ない。
「いったい何処まで行かれたのやら」
元人間の、それもまだ子供のシエルにとって空を飛ぶことは楽しいらしい。
小鳥に変身し飛べるようになってから、空の散歩を彼が楽しんでいるのをセバスチャンは知っていた。
だが、それにしても今日は遅過ぎる。散歩に出かけてから半日近く経っているのだ。
これ程シエルが戻って来ないことは今までなかった。
「そろそろお迎えに向わなくてはならないんでしょうかねぇ」
我儘で勝手気ままな所は悪魔になってから益々拍車がかかったような気がする。
小さく溜息をついたセバスチャンの左手の甲が、突然、カァァと熱を持った。
ちょうど契約印の位置だ。
今までにないことにセバスチャンは瞠目して、手袋から手を引き抜いた。
契約印が仄かに紅く光っている。
「これは?」
こんなことは初めてだ。
驚いて見つめているその視線の先で契約印はゆっくりと色を変え元に戻っていく。
だが、今度は戻るを通り越して、まるで消えそうなほど紋章が薄くなってしまった。
これは契約に歪みが発生したことを意味する。
「坊ちゃん?」
セバスチャンは薄れた契約印に意識を集中させた。
契約書は獲物を見失わないためのもの。どんなに離れていてもその位置を探し出すことが出来る。
たとえシエルが悪魔になろうとも契約書を持つ限りセバスチャンから逃れられない。
「見つけた」
セバスチャンはそう呟くと、導かれるまま一気に飛躍した。

*

降り立ったのは『悪魔の聖地』。
セバスチャン自ら咲き誇らせた薔薇の園の真ん中だった。
「こんな所まで飛んで来たのですか、貴方は」
自分がどこにいるのか理解したセバスチャンは苦笑した。
シエルが姿を変えることが出来るのは蒼い小鳥だけである。
館からここまではかなりの距離がある。飛べない距離ではないが、随分と時間がかかったことだろう。
「坊ちゃん」
サワサワと靡く薔薇をぐるりと見渡しながら、シエルを呼ぶ。
契約書に導かれて此処まで来た。そして今も此処に契約書があることが気配で伝わってくる。
それなのに、どこにもシエルの姿が見えない。
小さい彼の事だ。地面に横たわれば薔薇に覆われて隠れてしまうだろう。
そう思うのだが、その当のシエルの気配が薄い。まるで残り香のようなソレは今にも消えてしまいそうだ。
「坊ちゃん!?」
悪魔である自分が契約書に導かれて此処に来たのなら、本来目の前にシエルがいるのが当然だった。それなのに彼の姿はどこにも見えない。
「隠れんぼのつもりですか」
悪戯好きのいじめっこ気質の彼のこと。セバスチャンをからかっている可能性もある。
だが、いくらシエルが悪魔としての能力を使っているとはいえ、実力に雲泥の差があるのだ。セバスチャンが気がつかないはずがない。
薄くなった甲の契約印がセバスチャンの心を荒立たせる。
「坊ちゃん!!」
珍しく悪魔は叫んだ。それも苛立ち気に。その中にほんの微かな焦燥感を含ませて。

ザァァ

強い風が吹き、遠くで大きな白が揺れ動くのが目に留まった。
それと同時に蒼と白で埋め尽くされているはずのこの場所がほとんど蒼一色になっているということにも気がつく。
白薔薇はほとんど咲いていない。
ゾクリと背筋を寒気に似た悪寒が走る。
あの一際目立つ白の場所に契約書があるのが伝わって来た。だがやはり、そこにシエルらしき人影はない。
セバスチャンは地面を軽く蹴ると大きく跳躍し、その場所へ降り立った。
置かれていたのは白いテーブルクロスに覆われた小さなテーブル。
そして卓上には硝子の小瓶がひとつ。
その瓶の中から契約印が浮かぶアメジストがセバスチャンを見ていた。

なんの感情もなく。ただの物体として。

それが何か理解したセバスチャンは呆然として動きを止めた。驚きに息すらも止まる。目の前に突きつけられた事実とその意味がすぐには飲み込めない。

此処に在る契約書の意味。
此処にシエルがいない意味。

彼はセバスチャンを『悪魔の執事』だと云った。そして応える言葉はひとつだけだと。
契約に伴う命令による呪縛。どこまでも共に在るという束縛。
それらで繋がれているはずだったのに、シエルはいとも簡単にそれを引き千切って去っていったのだ。

「貴方らしい」

硬直から解けたセバスチャンは、小瓶の下に敷かれたメモを読み、深い微笑をその美貌に浮かび上がらせた。

シエルはある意味潔い性質だ。目的を果たせばその魂を悪魔にくれてやることに戸惑わなかった。
実際、失くした記憶が戻ったときすぐに魂を食らえとセバスチャンに命令したのだ。
結局その命令がふたりと繋ぐ脆くも強い呪縛となったのだが。
目的を果たすことに力を貸した悪魔に払う報酬をシエルはもう持たない。
それでも悪魔を自分の物として縛り付けるような、狭量で女々しい性格ではなかったのだ。
契約が最後まで果たせないのなら、悪魔が契約不履行を訴えないのなら、シエル自ら契約を破棄する。

己の瞳をくり抜いてでも。

小瓶を掲げながらセバスチャンは楽しげに笑った。
「隠れんぼではなく、鬼ごっこでしたか」
シエルの一部であるときは強烈な印象を与え美しくあったそれは、一個の物体になった途端ただの澱んだ目玉だ。
彼はセバスチャンを解放してくれたのだ。契約という鎖から。
それは同時に彼がセバスチャンから解放されたことを意味する。これから何処に行こうと誰と共にいようと各々の勝手だ。
しかし。
シエルの横に自分以外のモノがいることに、セバスチャンは耐えられそうにない。
あの魂も体も精神も。彼を形成するすべて、毛髪一本に至るまで自分の物だ。
誰にも渡さない。

「嗚呼、悪魔になっても。貴方は私を愉しませ、想像以上を見せてくれる」

彼が契約書を持たぬ今、セバスチャンにシエルの居場所を見つける手立てはない。
ただ、彼の言動、彼の思考を読んで探し出すしか方法はない。

「決して逃がしませんよ。坊ちゃん」

セバスチャンは唄うように呟いて、闇に沈み月を浮かべた空を見上げた。






メモに書かれていた言葉は。

「You are free」

ただ一言だけだった。

 
 

飛んだ小鳥

 








■あとがき

死んだ魚の目をして辛気臭くしてたら坊ちゃんに逃げられちゃったセバスの図。(笑)
いや、シエルならこのくらいするかなーと思いまして(^^)

基本的にお互いに執着するふたりの構図が好きです。
特に悪魔のセバスチャンが坊ちゃん坊ちゃん言って執着心見せるのとかなり萌えますv





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